怒り
以前のブログで一度、怒りについてもすこしお話したことがありました。(はじめての投稿だった気がします)
喜怒哀楽の中で、怒りが少ないと。
あまり怒りの感情が湧かないと。
最近ある出来事で気付いたのですが、それはトラウマと関係しているのかもしれないな、と思いました。
まだ子供だったとき、ある事がきっかけで怒りという感情を強く持ったひとの感情のエネルギーみたいなものをそのまま受け止めてしまった、それがその時は漠然と怒りっていやだな、ぐらいしか思ってなかったけれど、大人になってもその事を覚えている。それは感覚としてです。
子供の頃は言葉も知らないですし、その事をどう捉えるかは、全く無防備なものでそのままストレートにキャッチしてしまいます。
大人になってもくすぶって残っていたんだな〜、と気づきました。
その事が無意識にも、ヨガへの道へ導いたものでもあると感じています。
生きること、よろこび。
そんな当たり前の事が難しくなってしまう、それは何故なのでしょう?
人の病や迷いは、心の迷いや、ふとしたとときの隙をつく闇のようなもの。
それにとらわれてしまう。
その怒り、というものへ自身のトラウマがあったのだ、と知り、気付き、思った事。
何に対して怒るか。
以前は怒り、自体が苦手だったので、それは平和主義だから、とか争いが苦手、ケンカが苦手、皆仲良くしましょうよ、と、のほほんとした性格と思っていたけれど、その奥の根っこにあったのはそんなもので、そんな根っこが出て来たのね、とわかったら、怒り自体がわるいものではない、と思えました。
政治に対して、環境破壊に対して、動物虐待に対して、非人道なことに対して、怒ったって良い。
それは、人としてどうなの?ということであるから。
何に対して怒りを持ち、何に対して喜び、悲しみ、楽しむのか。
人として。道理、正しい道、それは愛とも言えます。
それが、共通認識となったとき平和にもなるであろうし、皆ちがって皆いいのだけれども、相互関係の感情や情緒の違いによって互いに成長し、人間同士、時代と重ね合わせて変わっていく、と思いました。
私に出来ることは何であろうか、とその根っこが問うのです。
答えは、探し続ける事でしかない、と歩みます。
合掌。