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ヨガとからだとこころのブログ

もうひとりの自分

「なんでこんなだいじなときに体を壊しちゃうんだろう」

「なんでいうことをきいてくれないんだろう」

「負担だと思ってないのに」

 

体って急に調子を崩したり、ここっていうときにいうことをきいてくれなかったりします。

 

しごとの大事な会議。

予約のお客様が来る日。

新規契約のたいせつな日。

 

子どもの子育て。

家事、育児、まわりの人との人づきあい。

母として倒れるわけにいかない。

 

しあわせに思っているし、好きでやっている。

納得もしてやっている。

それなのに体がダウンしてしまう。

 

多くのひとがどんな事情であれ、経験されているかもしれません。

日常生活の中にあるちょっと困ったタイミングでの体調不良。

 

病院にいったり、すこしやすんで休養をとったりすれば数日で治る症状でもある。

でも、それが毎回毎回同じようなできごとのときにだけ体調を崩してしまう。

 

これは何だろう?

ストレス?

そんなことない。

これでいいと思って、私はやっている。

 

 

 

ヨガは人間の体への捉え方がいろいろあります。

そのひとつに真我という自分がいます。

自分という存在の中にいる、もうひとりの自分。

 

インド哲学では馬車と人に例えられています。

 

ここでいう馬とは人間でいうと感覚器官です。

その道のりは人生、馬車の運転手は理性、車体は自身の体です。

そして車主が真我といわれています。

 

 

こころで感じ、からだで感じる、感情。

それを理性である運転手がコントロールしています。

理性、もしくは仏性ともいわれます。

 

運転手が馬たちを右や左に動かしますが、どの方向、どの道をゆくのか、決めるのは車主です。

車主の指示で運転手が馬を動かします。

 

 それぞれ皆に役割があり、全てが協力して道のりをゆきます。

 

もし、車主がいなくなったら。

どこへゆくのかわかりません。

目的地がわかりません。

自分の目指すところが見えません。

 

 

理性でもって、もうひとりの自分、真我を無視してしまう。

そうすると自分の道を歩めません。

 

"本当は、こっちじゃない"

"本当は、こっちにいきたい"

 

それを教える為に、ときに体は体調不良になって教えてくれたりします。

違うよ、こっちじゃないよ、と。

縁にはかならず因があるといわれています。

 

 

おとなになれば、やることが増えたり、責任も伴ったり。

試練とも思えることに出会う場面を迎えます。

 

理性は必要にもなりますが、すべてではありません。

それは自分でもありますが、自分でないともいえます。

 

 

 

日常生活の中で体調を崩しやすくなったら、すこし立ち止まり、今までの選択をすこし変えてみる。

やめる、やらない、ではなく、自分に合ったかたち、ムリのない方へ。

自分の道を、自分らしい歩み方ですすむ。

 

 

 

まずは、気づくことから。

そう思う心がある、そう感じる自分がいることを知る。

そして、認める。

許す。

それだけでも体は応えてくれると思います。

段階を経て、はじめて理性の自分で、さぁ、どうするべきか、と具体策に向きあっていく。

 

 

そんな流れがたいせつに思います。

 

 

 

 

 

 

(参考文献:『生き方としてのヨガ/龍村修』

わかりやすくお伝えする為、表現上、私個人の解釈も含んでおり、省略している箇所もあります。

詳しく知りたい方は上記の本をお読みになるか、【梵我一如】でお調べいただくとより理解を深めていただけるのではないかな、と思います。インド哲学、思想です。)